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表現の自由

■Warburton, N., Free Speech: A Very Short Introduction, Oxford University Press, 2009.

『「表現の自由」入門』という訳書のほうを本屋で先に見たのですけど、アマゾンではその半分以下の値段で原書が買えたため、そっちを読むことにしました。

ヘイトスピーチの問題で、表現の自由になるべく手をつけずに攻撃される側の負担を軽減するには、内容と形式を分けて、形式(騒音レベルとか)のみに対して規制をするというのがいいんじゃないかなと個人的には思っています。が、まずは表現の自由って何よというあたりをささっと見たかった。

以下メモ。5章と終章はあまり興味が惹かれなかったので簡略に。

【第1章】

・「おたくの意見には反対だが、その意見を言う権利は死守する」というヴォルテールの言葉にあるように、表現の自由は非常に大切にされてきました。世界人権宣言の第19条や、アメリカ合衆国憲法修正第1条などにも明示されています。

・表現の自由は、公的な場での活動に伴うものです。フィクションかノンフィックションか、事実か意見か、文章かイラストか何らかのパフォーマンスかは問いません。検閲は、こうした表現を規制することもありますし(シン・フェイン党の党首のスピーチを放送する際に俳優の声をかぶせるなど)、表現者を隔離することで表現活動をやりにくく・貧困にしてしまうこともあります(政治犯の収容など)。

・バーリンの2分法でいくと、表現の自由は「消極的自由」といえそうです。表現の障害になるもの、つまり検閲、投獄、法規制、暴力、焚書、サーチエンジンのブロック等を取り除くことです。(もっとも、マルクーゼのように「権力者がメディアを支配している社会では、表現の自由は単に権力者に有利なだけだ」と言う意見もありますが……)

・表現の自由は、民主的な社会では特に重要だとされています。(1)政策形成をするためには、たとえ不快なものであったとしても、さまざまな意見や情報に触れることが必要だからだ、という帰結主義的な理由がありますし、(2)人の自律性や尊厳を保証するものだから、という擁護の仕方もあります。ドゥオーキンは、表現の自由を認めない政府には正統性がないとまで言っています。

・しかし、それが誰かを傷つける言葉、プライバシーの曝露、社会を危険に陥れる情報であったら?表現の自由に優先する別の価値があるようにも思えます。ティム・スキャンロンは、神経ガスを非常に簡単に作る方法を公開してよいか?と例を挙げ、「何でも自由ではない」と注意を促しています。

・一方で、表現規制は一度許すと歯止めがかからなくなる恐れもあります。もちろん、その社会が置かれた状況によって必ずしも表現規制が全体主義には直結しないかもしれませんが。それでも、どこかで制限は必要ではあるようです。では、どうやって制限するのがよいのでしょう?

【第2章】J.S.ミルの「表現の自由」

・表現の自由を語る際の古典といえる『自由論』のミソは危害原則。他人に害をなさなければ自由を制限されないということ。これにより、”言論の自由市場”でさまざまな意見が交換され/衝突することで、より正しいのは何か、間違いとして棄却されるべき部分はどこか、が分かってくるわけです。この路線でいくことが進歩をもたらすという帰結主義的な考え方といえそうです。

・その際、独断を排除するべきだといいます。人は誰でも間違うものですし、一部あっていて一部間違っているということもあり得ます。しかし、自分は無謬と思い込んだり検閲を導入したりすることで、自身の誤りを訂正する機会を逸してしまいますし、自分が正しかったとしても、その証拠を得られなくなってしまうでしょう。

・もちろん、危害原則に従って、誰かに物理的な危害が及ぶような煽動は制限されなければなりません。それでも、心理的、経済的な危害は制限の対象から除かれています。これは今日のヘイトスピーチなどの状況を思い浮かべると、違和感のあるところです。

・そう、ミルの主張は全面的に受け入れ可能なわけではなさそうです。一つの批判は、想定しているのがアカデミックな論争のようにマナーを守って行われるようなものだが、実際はそんな行儀のよい状況ばかりではないということ。また、今日論争になるような問題は、事実関係やその解釈ではなく、特定の宗教に対するからかいなど、他人の尊重を欠いたような表現をめぐるものや、ポルノ表現だったりします。これはミルの想定した思想の自由市場で交換されるべき「真/偽を持った」表現とはちょっと違ったものなのではないでしょうか。

・また、ミルの主張に従うと、反対意見を持った人に積極的に発言の場を与えなければならないということにもなりそうです。しかし、「同じ土俵に乗ることによって、相手の意見が聞くに値するものだと一般に印象づけてしまう」という理由から、差別主義者やホロコースト否定論者、若い地球創造論者(Young Earth Creationist)との討論を拒否するNo Platform Argumentという立場もあります。これはミル的な帰結主義から導ける立場でもあります。
・ただ、これは検閲(言論弾圧)とは別ものだと考えてよいでしょう。極端な人にまで積極的に発言の場を与える義務はないし、ネット時代には自由に意見を発表することが可能ですし、「寛容な人にしか表現の自由を認めない」という検閲の一種にもあてはまるとはいえません。

【第3章】不快表現について

・人を不快にさせるような表現をする場合は、「表現の自由」を笠に着てはならないとの意見があります。しかし、共感できる表現だけに表現の自由を認めるというのは、そもそも表現の自由とはいえません。ミルの立場からも、制限が許されるのは煽動だけであって、単に不快だからというだけでは許されません。たとえばイスラム教国でムスリムでない人が豚肉を食べても、それは私的な行為なので国家が介入すべきではないし、豚肉食に肯定的な文章を新聞で発表したとしても、それは直接的な危害とはいえないので制限されるべきではありません。(しかし、反発する人たちが暴れるのを収めるのにコストがかかることを理由にして表現規制heckler's vetoが行われてしまうことがある)

・宗教に対する不敬を罰する法がある国もあります(1977年、英国でGay Newsにキリストに性的な侮辱を与えるような詩が載ったケースでは有罪まで出た)。前時代の遺物だとする見方もあれば、宗教は人生の基底的なものであって特別な保護に値するとの考えもあります。では、一神教信者が多神教信者を不快だと思うような、宗教同士の問題だったらどうなるでしょう?不敬を禁じようとすると、あちらが立てばこちらが立たずの状況が必然的に招かれます。

・「きつい言い方だけ規制すればいいのでは?」というのはどの宗教も平等に守れそうでいいですが、しかしマイルドに言っても逆鱗に触れるケースもありますし、何がマイルドな言い方かというのも難しいです(モンティ・パイソンのパロディを想起のこと)。そして、表現の自由は、おやさしい表現で行われた議論だけで達成されてきたものでもないはずです。挑発的な表現によって問題の所在に目が向くこともあります。

・おそらく、最も正当化ができそうな規制は「人を不快にさせること自体が目的の表現」かもしれません。これによって誠実な批判のほか、うっかりや無知によって不快表現をした場合を除外することが可能になります。ただ、作品の目的がクリアで、誰でも同じように解釈できるケースばかりではないというのが難点です(イスラムの女性の扱いを告発しようとした映画を作ったことで監督が殺された例など)。

・人種や宗教、性別に基づいて人を貶める「ヘイトスピーチ」に対する規制はどうでしょうか。これは中傷相手に届いてこそ効果があるものですし、時にはその輪を広げることも目的とするので、まず私的な活動とは言えません。標的になった人の生活を著しく損ねる表現活動を「表現の自由の鬼子」としつつ許容するのかどうかが問われることになります。

・表現の自由に基づいてヘイトスピーチを許容する根拠は2つあります。
(1)ヘイトスピーチと戦う最良の方法はカウンタースピーチである。規制は地下に潜らせるだけ
(2)表現規制が他にも波及する橋頭堡になってしまう
・英国やオーストリア、ドイツなど、民族的差別を禁じる法律で対応できる国もあります。
・哲学者のJennifer Hornsbyのように、ヘイトスピーチを自由主義的な視点から許容すると、結局、別に守られる必要の小さな人たちばかりの自由が守られることになるとして、反対する意見もあります。

【第4章】ポルノ

・ポルノグラフィは、性的な行為の明示によって、見る人に性的な興奮を与えるイメージです。が、視覚的な表現とは限りません。音や文字を使ったものも含みます。ポルノは多くの場合、(1)特にあけすけな「ハードコア」と(2)描写がややマイルドな「ソフトコア」を分けて考えます。

・ハードポルノはそもそも、表現だといえるのでしょうか。そもそも表現の自由とは関係のない案件なのかもしれません。ポルノの目的はメッセージを伝えることというよりも、性的興奮とマスターベーションの道具だといえます。製作の過程で誰にも危害がなければ、こうした作品を大人が求めるのに国が何も介入する理由はないという議論もあります。Frederick Schauerは「ポルノはバイブと一緒だ」としています。セックスの代替物だというわけです。

・Catherine MacKinnonとAndrea Dwokinもポルノは女性の従属であって、表現の自由案件ではないといいます。これに対して、ポルノ画像や映画がアイディアの伝達に使われる「こともある」、それゆえに言論市場に入ることもありうるという見方もあります。また、フェミニストの中でもWendy McElroyはポルノ賛成の論陣を張ります。理由は、ポルノが(1)性の可能性を概観させてくれる(2)セックスの代替物を安全に供給している(3)教科書には書いてないような情報を与えてくれる―という女性にとってのメリットがあり、それへのアクセスは保障されるべきだというもの。

・しかし、ポルノが身体的、精神的、社会的な危害につながるという指摘もあります。第一のポイントは、女優らは彼女らは社会的に弱い属性を持って業界に参入し、身体的な強制や感染症の危険を受けているという。精神的苦痛についても、ミルは考慮に入れないとしていますが、150年経った今では話は別です。

・もう一つのポイントは、ポルノ鑑賞によって性犯罪が喚起されるというもの。しかしこれまでの研究では、決定的な根拠は出ていません。MacKinnonは性犯罪に至るメカニズムを推定していますが、仮説に過ぎません。そもそも多くの人がポルノを見ているのに、性犯罪をしていない。しかし、ポルノと犯罪につながりがある可能性が大きいなら、何らかの規制は必要のように思えます。

・ヘテロセクシャルなポルノでは女性が性の対象として扱われているとして、フェミニストらが反対しています。胸が大きいなど、特定の体型を登場させることで、誤った期待を形成させるとか、性犯罪的な行為を喜んで受けているように描くことで、女性を貶めている、全ての女性がそうなのだと思わせるとの反対意見もあります。ただ、Ronald Dworkinのようなリベラリストは、製作の中で直接的な危害が及んだり、子どもが使われたりしていなければ、検閲はすべきでないと主張します。ポルノを見ることの帰結がさまざまあるとしても、誰かの危害に直結するわけでないなら、国家は中立的でいなければならないと。理由はやはり、検閲を始めると歯止めがきかなくなる恐れがあるからです。

・法は社会の道徳観を反映すべきものなので、ポルノが伝統的な家族の在り方や道徳に反するなら、法規制は正当化される、という立場もあります。社会のための規制、パターナリズム的なアプローチといえそうです。ただし、これには「政府は特定の道徳観に肩入れすべきではない」との批判があります。

・表現の自由を守ろうという人は、規制には単なる「むかつく」という以上の理由が必要だという前提を持っています。一方で、それでもどこかで線引きをする必要はあると多くの人が考えているのですが、どうやって線を引くかについてはなかなか一致のしにくいところです。児童ポルノはだめだとして、では、実在しない子どものCGだったら?児童ポルノの消費は実際の児童虐待に結びつくのか?……

・「アートだ」という主張がされた場合はどうでしょう。検閲を免れるべきでしょうか。「チャタレイ夫人の恋人」など、芸術としての価値は、検閲の適否を考える際に考慮すべきものなのか、そして、なぜ?一つの回答は、それが思想を伝えるからというもの。ただし、そうした理由を隠れ蓑に使われる可能性もある点が要注意です。もう一つの理由は、文化という社会の中で役割を果たしているものに対する制限には慎重であるべきだというもの。しかし、なぜ文化だけにそういう特別な価値が認められるのか、という不公平は指摘されうるでしょう。

【第5章】ネット

・コピーライト、レッシグ、引用、ゾーニングとか

【終章】

・検閲には理由がいるよとかそういう話
・華氏451は紙が燃える温度なんだって

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2016年05月24日 18:21に投稿されたエントリーのページです。

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