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プラグマ(改)

※ちょっといじりました 2016.2.15

■伊藤邦武『プラグマティズム入門』筑摩書房,2016年.

学生時代になぜかローティを面白いと思い、その流れでジェイムズやパースへと遡っていった覚えがあります。
社会思想の先生に「何がいいの」と問われて、咄嗟に「あけすけなところ」と答えましたが、今考えてもあながち外れていなかったような。

プラグマティズムは真理や言語といったオーソドックスな哲学のテーマから、政治、教育といった社会問題まで、いろんなことを語るのに使われています。つまり、プラグマティズムは何かを語るときの「態度」に関する態度表明なのだと言ったほうがよさそうです。

源流にあるパースやジェイムズの示した原則は
(1)可謬主義。絶対確実、永遠不変な知識を手にすることはできず、いま持っている知識は必然的に誤りの可能性を含んでいるということ
(2)実用主義。ある知識を「さしあたりの真理」と呼んでいいのではないか、という基準は、それによってより広い対象を説明できる、よりシンプルに説明できる、対象を思った通りに操作できる、といった「使いでのよさ」に求められるということ
にまとめられるでしょう。

思想の流れにおいてプラグマティズムがとっている代表的な立ち位置を一言で言うなら「反デカルト主義」でしょう。あらゆるものを疑っていって、最後に絶対確実な知識にたどり着きました、というデカルトと上記(1)はまず相容れません。そのポイントは見たところ二つあって、
・そもそも「あらゆるものを疑う」がナンセンス。疑ってるおまえはどこに立ってんの。おまえが疑う対象のネットワークによっておまえはできてるんちゃうの、という批判
・理性に従って見れば正しいゴールに到達できる、という考えが独断に過ぎないという批判
だと思います。確かに、「慣習や権威に頼った判断よりも、自分のアタマで考えるんだ」と訴えた点に意義はあったかもしれません。しかし、そんなんで哲学がめでたく終結したかというと全然してない。ちゃんとその現実見ろやと。言い換えれば、デカルトに対する「『分かった』はおめーの思い込みだろう」というひどい批判(苦笑)。とすれば、代わりに採るべき探究の方法は「みんなで批判しあいながら考えてコンセンサスを形成する」という、哲学の民主主義モデルとでも言いたくなるようなものになります。

倫理のような価値的な対象だけでなく、世界をどう把握するかという事実の問題も、実際どうやって探究が行われているかといえば、ある共同体における証拠の蓄積とコンセンサスの形成、そして動揺と、新たなコンセンサスの形成です(クーンぽい!)。つまり価値も事実も思ったほどはっきり分けられるものではない。
また、日常の知と専門の知もそんなに違った原理で動いているわけではありません。探究の深さというか、ある判断をする際に使える道具(知識)の量に違いはあれ、どちらも「とりあえずそこにある”絶対確実”とはいえないようなさしあたりのもの」を使って判断し、進んでいかなければならない。
こういう、長らく当然のように受け止められてきた二分法に対するアンチも、プラグマティズムから引き出されてくる重要な態度だと思います。

さて、そう考えてくると、何が正しいかは言語とか知識のネットワークの外に厳然と存在する「事実」と対応しているかどうかで判断できる、とは言えなくなります。クワインはそこで「真理とは、それらのネットワークの維持に貢献するもの=ネットワークにとって有用なものである」とした。

とすると、何が正しいかもネットワーク/共同体により違ってくることになります。そこから何かと評判の悪い相対主義に陥らず、なんとか「そうはいってもこれは正しくてあれは間違っている」ということを言えるような客観性を確保するってもんではないか、どうやったらできるのか、を考える必要が出てくるんだろうなあと思うところです。ところがローティは「そんなもんしかし、私は『われわれが真理と思うもの』の体系から外に出ることなんてできないんだから、『われわれ』から出発して他者との連帯を探るしかないでしょう」という自文化中心主義を提示してしまった。

パトナムに至ってはもう何が何だかわからない遍歴ののちに、そうはいっても人間誰しもある程度共通の自然に対する認識能力はあって、それをベースにした合意=真理への逢着はできるんだろうなあというなんだか普通なところに至ったようであります。

この本では始祖から現在まで、13人のプラグマティストが紹介されています。「源流」「少し前」「これから」という3部構成で、弊管理人が本を読んでいたときはまだ存命で(その頃には左翼がどうとか言うようになっていたけれども)書き物もしていたローティも、ローティの本によく出てきていたデイヴィッドソンもクワインも「少し前」の章に登場していたのを見て、時間の流れを感じました。

でも「これから」まで読んでみて、やっぱり弊管理人自身が興味があるのは、現代の人たちがパースとどう向き合うかみたいな業界内の議論よりも、「プラグマティズムを使って何を斬るか」だということが確認されました。もっとも、自然科学の探究では、民主主義的で実用主義的な真理観はもう(建前上は)当たり前になっていて、ではいったい何を斬れば面白いのでしょう。よくわかんない。

それと愚痴ですが、学生の優秀さに寄りかかって教える能力を鍛えてこなかった人によくある「●●的××論とか、ちゃんと説明されてない術語がいっぱい出てくる」「内容より位置づけに説明の力点がある」という悪い入門書に分類したい、これ。想定読者は誰なんだ?索引がほしい。

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2016年02月11日 15:17に投稿されたエントリーのページです。

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