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【ペンディング】ヴェール論争

【10/4】↓すごいへたくそなまとめなので、書き直しを試みます


1月にシャルリ・エブドの襲撃が起きたあと、それなりにいろんな解説を読んだのだけど、なんというかフランスの社会に詳しい人が「自分は背景を知っていて一般人は知らない」ということをあまり意識しないで書いている感じがして消化不良でした。で、少しスコープを広げてみようと読んでみた本。ちょっときれいに整理しすぎだろうとも思いますが、見通しはつきます。メモは結構いっぱい書きましたが、ここではさわりだけ。

■ヨプケ, C. (伊藤豊他訳)『ヴェール論争』法政大学出版局, 2015年.

・本書の課題は、ムスリム女性のヘッドスカーフの受け入れに際してリベラリズムがどう機能するかを、これまで主に論じられてきたフランスだけでなく、ドイツ、イギリスに関しても見ることである
・リベラリズムには二つの顔がある。第1の顔は、さまざまな生の様式を調停する暫定協定としてのリベラリズム。第2の顔は、それ自体が一つの生の様式としてのリベラリズムである
・「国家の宗教に対する中立性」も、上記に対応した二つの顔を持つ。「宗教をどれも認める多元主義」(第1の顔)と「宗教はどれも一律に認めない社会統合のイデオロギー」(第2の顔)。後者の場合、そのイデオロギー自体が、いわば一個の宗教と化す可能性もある

・フランスは「ライシテ(非宗教性、政教分離)と共和主義的リベラリズム」。公的な場での宗教色を徹底排除する。リベラリズムの第2の顔に対応する。2004年に公立学校における「これ見よがしの」宗教的シンボルが禁止された。リベラルの下での抑圧ともいえる
・イギリスは「多文化主義的リベラリズム」。ヘッドスカーフは特に問題にならなかった。リベラリズムの第1の顔。ただ、目以外を全部覆う過激な形態に関しては学校の権限で禁止できるようになった
・ドイツは「キリスト教―西洋的なリベラリズム」。西洋的な価値に挑戦するようなイスラム的ヘッドスカーフは禁止、という立場。

・ヘッドスカーフはどんな意味を持っているのか:
・本来は特に政治的、宗教的意味はなかった。クルアーンでも社会慣習として規定されている
・ただ、イスラムにおける家父長制的な価値観、男性優位を具現しているともいえる。女性のセクシュアリティを夫に所有させ、封じ込める機能を持っている
・1980年代以降、西洋の下品さや物質主義、商業主義を拒否するものという意味合いが加わる
・どんな事情があったのか。公教育と都市化を背景に→イスラムに精通したムスリムが量産され→イスラム復興とともに→近代化・世俗化しつつ反西洋に傾いた
・さらにフランスでは、占領者側(フランス)がヴェールを除去しようとしたことで、抵抗のシンボルとしての意味が付加された
・ガスパールとコロスカヴァールは、フランスにおけるヴェールの多義性を以下のように分類した
(1)移住先でも出自を示すため。これはフランスに限らず、どの移住先にもある
(2)淑やかさのシンボル。セクシュアリティの管理の手段として親から課されるもの。ただし、同時に、ヴェールを付ければ家庭の外に出られるようになる、という「解放の可能性」としての意味も持つ。これが論争の種になる
(3)自立したフランス人であると同時にムスリムでもあるという二重性を示すために、自発的に身に着けられるもの←これがよく社会学の研究テーマになる
・ただし、いずれにしても宗教性は免れないことを忘れるべきではない(さもないと、ただのファッションになってしまう)。そして、宗教性の中心にあるのは女性の従属である

・誰のヘッドスカーフが、どんな場で問題になってきたか:
・ヘッドスカーフは、リベラリズム(国家の中立、個人の自立、男女平等)への挑戦だといえる。ただ、リベラリズムの下でヘッドスカーフを抑圧することも非リベラルになりえてしまう(フランスを見よ)
・司法は権利保護の立場を取る傾向を見せてきた。リベラルな国家は宗教の教義に介入したり管理したりしてはならない。だから裁判所は基本、何が宗教的かを定義できない。とすると、何かが宗教的かどうかの判断は基本、個人の主観に任されることになる
・一方、立法と行政は、治安や秩序といった集団の価値を優先させる傾向がある。宗教的権利は個人の領域だけに関するものではない。ヘッドスカーフは公的領域、特に職場と公立学校で問題化した
・公立学校でのヘッドスカーフ問題は、ドイツではヘッドスカーフを着けたい教師=国家の代理人=の宗教的権利が争点になった
・フランスでは、宗教やエスニシティを払拭し、自由で平等な国民を形成する場となる「共和国の聖域」、すなわち公立学校で教師が着用を禁止されることは、当たり前すぎて問題にもならなかった。規制論議の対象になったのはもっぱら学生のほうだった
・イギリスでは目以外の全身を覆う過激なヘッドスカーフのみが問題になり、学校の排除権が高等法院で認められたが、国家は特に関与しようとしなかった

・イギリスの対処は、ヘッドスカーフが政治的、宗教的な対立になるのを避けながら、「全身を覆われるとコミュニケーションに支障が出る」といった実利的な問題に絞ったという点では、それなりにうまい。しかし、ヨーロッパの中でも例外的に理解され受け入れられているイギリスでは、ムスリムは疎外されたマイノリティとして不満を募らせている
・フランスの対処は、ヘッドスカーフに対して厳しい方針を採ってきたが、国民統合の明確な条件を示しえていて、ムスリムの文化的統合度も高いといえる
・ドイツは、憲法レベルでは諸宗教の平等を掲げながら、地方政治レベルではキリスト教をひいきし、イスラムだけを排除しようとしている点で、リベラリズムを踏み外している。

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2015年10月02日 23:17に投稿されたエントリーのページです。

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