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ガルブレイス

■中村達也『ガルブレイスを読む』岩波書店,2012年.

ヴェブレン、ガルブレイス、サミュエルソン、制度派、新古典派総合。ミクロもマクロも知らない、そもそも経済専攻でない大学2年の冬にうっかり取った授業では、教授の研究室で同級生二人とコーヒーをいただきながら(そういえば当時はコーヒーもほとんど飲んだことがなかった)英語文献を読むという恐ろしいシチュエーションになってしまい、しかもほとんど消化しないまま、よくわかんない言葉を覚えて終わったのが思い出です。

その覚えたうちの一人、ガルブレイスの『ゆたかな社会』はしばしば耳にするので気になってはいましたが、そのものをいきなり手に取るのはちょっと躊躇われました。もうとにかく経済って分からない。普段は原典を読んでから解説、がよい順番なのですけれど、全くなじみのない分野はまず解説、これもまたセオリーだと思ってます。

本書は1983年の一般向けセミナーをまとめて88年に出版された本を改訂・補筆し、2012年に岩波現代文庫に入ったもの。1950年代から90年代までの主要な著書を一つ一つ分かりやすい言葉で解説しながら、ガルブレイスの思想の年代記を作り上げています。それによればガルブレイスという人は、一生かけてオリジナルな一つの体系を組み立てたというよりは、その時々の主流の経済学と社会通念を批判し、鋭い洞察力と豊かな引用、風刺を駆使して来るべき時代の予言をしてみせる、異端の経済学者だったらしい。

『アメリカの資本主義』(1952年)のキーワードは「拮抗力」です。普通の考えでは、多数の小さな企業が参加する競争的市場が成立していれば、「神の見えざる手」=自然の調整機能が働いて万事うまくいく。その例外事態である大企業による独占を防ぐための独禁政策が必要とされるわけです。
しかし、ガルブレイスは大企業には固有の存在価値があるという。複雑・高度化した20世紀の科学技術を使って革新を起こすためには、巨大な元手の蓄積が必要になります。企業の大規模化は、技術革新の原動力として肯定的な意味を持っているのです。
では、大企業の好き勝手は放置されるかというと、そうでもない。実際に起きていることは1社の独占ではなく、数社による寡占状態で、そこには競争があります。ある企業から見て上流にある原料業界でも、下流にある小売業界でも、同じように力のある少数の企業が競争していれば、業界の内に対しても外に対しても、1社だけが傍若無人に振る舞えないようにする「拮抗力」が働きます。巨大企業の中に生じる巨大労働組合もまた、そうした拮抗力の源となります。政府がすべきことは、独禁政策によって技術革新の担い手である巨大企業を排除するのではなく、拮抗力を支援するような政策を実行することなのだといいます。
逆に、拮抗力をキャンセルしてしまうような力がインフレにはある。そして、その懸念はこの出版以降、実際のものとなります。

次の『ゆたかな社会』(初版1958年、69年、76年、84年、98年に改訂)は、アメリカが持続的な経済成長モードに入った時期に書かれました。成長を礼賛するのではなくて、成長が必然的に生む病理に焦点を当てることで、貧困を前提にする従来の経済学にアンチを唱えた本といえそうです。
まず、それ以前の経済にあった「古い病」として、「物質的貧困」「不平等」「経済危機」を挙げます。これを克服するのが最大の課題だったのですが、成長の時代に入るといずれも緩和されます。しかし、新たに「依存効果」「慢性的インフレ」「社会的バランスの喪失」という三つの病が現れます。
「依存効果」というのは、大企業が大量生産と並行して広告・宣伝を通じて大量消費を促し、消費者が消費に依存する状態。「慢性的インフレ」は、戦時や革命下ではなく、ものが豊富にある平時の世の中で緩やかにインフレが続く状態。「社会的バランスの喪失」は、私的な財やサービスの充実に比べて、公共インフラの整備が立ち後れていることを指しています。それぞれに対策を打ち出していますが、特に「依存効果」への対策として、大量消費にブレーキをかける売上税の導入とともに、雇用創出のための生産拡大を牽制しようとベーシックインカムの導入を提案しているのが目を引きます。

『新しい産業国家』(1967年、71年、78年)では、経済の主役となった大企業の振る舞いをクローズアップしました。
大企業を中心とした経済体制を象徴する言葉が「計画化」です。ここでも重要な背景となるのが技術の高度化・複雑化です。製品の企画段階から世に出るまでに長い時間と専門的な知識を要するようになり、生産設備にも大きな投資が避けられない。必然的に組織は巨大化し、あるキャラの立った個人の独裁ではなく、高水準の教育を受けたさまざまな分野の専門家集団(テクノストラクチュア)による支配体制を採用し、軍産複合体に見られるように政府との結びつきを強め、依存効果を通じて消費者をコントロールし、消費者に商品の選択の自由を残しながら、選択肢の幅を支配することもできるようになります。消費者主権に立った新古典派とは対極の見方です。
さらに、調達にまつわる不確実性を減らすため原材料を供給する会社をグループに取り込み、価格変動のリスクを避けようと大量・長期の契約を結んで調達を行うようになります(航空会社が燃料を随分先の分まで押さえるようなものかな)。
また、テクノストラクチュアを駆り立てる動機も前時代とは変わります。強制されて、あるいは金銭目的で動くというよりは、組織内での一体感を得たり、逆に組織を自分の思うとおりに動かしてやろうという欲求。これを加味して大企業の動態を理解する必要が出てきたといいます。

オイルショックの1973年に出版された『経済学と公共目的』は、『新しい産業国家』では注目されなかった中小企業も分析の中に含め「で、どうすればいいのか」を考えた本といえます。経済成長が分配の問題をうまく解消してくれていた時代が終わり、「どう分けるか」を初めとしたさまざまな課題が浮上しつつありました。
大企業の「計画化体制」(市場を支配する体制)と対比されるのが、中小企業が構成する「市場体制」(市場で決まった価格を受け入れて経営する企業たちの体制)です。ここでしかできないことは、農業のように非定型的で一極集中しづらい生産、床屋のようなサービスの生産、そして美しい一品もののような芸術的価値の生産です。こうした生産が将来重要になるだろうといいます。
しかし、現状としては計画化体制と市場体制の格差は広がっている。そこで、政府は大企業と癒着するのではなく、逆にそのガバナンスに手を突っ込み、公共的な方向へ引っ張っていくべきだとします。例えば環境問題への対応、例えばインフレ対策。そして住宅、教育、福祉政策に力を入れること。

最後にテーマになるのが『権力の解剖』(1983年)です。ケインズ的な政策が60年代のような有効性を失い、市場の力を頼むサッチャー、レーガン政権ができた時代です。しかし、競争的な市場なら自動的な調整機構が働くので権力が登場する余地は少ないのですが、現実は寡占市場です。誰かが支配し、誰かに力を及ぼしています。権力を考える必要が出てきます。
権力の類型として、強靱な・あるいはカリスマ的なリーダーによる「威嚇権力(脅し)」、財力を背景にした「報償権力(見返り)」、そして組織が操る「条件付け権力」を置きます。最後のは現代を特徴づける「自覚しないまま従ってしまう権力」で、広告・宣伝や教育によって浸透します。そして、それぞれの権力には対抗する権力が生まれますが、それがうまくバランスするとは限らないという、やや悲観的なビジョンを持っているようです。

なるほど、どの本もはっと目を見開かせるキャッチフレーズに満ちています。主流や定説の中でぼやーんとしてしまった頭を覚醒させる言葉、それを概観させてくれます。技術決定論ぽい経済観も興味深かったです。とても魅力的な解説ですが、よくできすぎていて原著に手を付ける意欲が多少そがれますかね……

* * *

先週は日帰り神戸、のはずが、半分予想していた通り東京に帰れなくなり、とりあえず大阪まで戻って投宿、6時前に起きて翌日9時から普通に東京に出勤するという疲れる出張をしてしまいました。

三宮の「トゥーストゥース・ガーデンレストラン」で腹ごしらえに食ったクレープ。
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んまかったー
次はメシ食いたい。

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2014年07月08日 00:10に投稿されたエントリーのページです。

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