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三つの対話

■バークリ(戸田剛文訳)『ハイラスとフィロナスの三つの対話』岩波書店、2008年。

UCBをカリフォルニア大バークレー校とか言うのに、なぜGeorge Berkeleyはバークリなのか。まあいいけど。
1713年の著書です。

目や皮膚や舌といった感覚器官を通して知覚される観念「赤さ」「丸さ」「甘酸っぱさ」の集合体こそが「リンゴ」の実在そのものであって、そこから離れたリンゴという物が存在するのではない、という非物質主義を採るバークリ=フィロナスが、リンゴの知覚の原因となる「何か」が外界に実在するという物質主義を採るハイラスをこてんぱんにする、哲学徒同士の対話篇。
  フィ「その何かっつうのは知覚できないの?」
  ハ「できるなら知覚の原因にはならんでしょう」
  フィ「じゃあその知覚もできない何かが存在するなんてどうして分かるんだコンチクショウ」
  ハ「ぎゃー」
みたいな論理(まとめすぎ)。フィロナスの非物質主義は懐疑論の誹りを受けますが、結局は「不可知なもの」を恣意的に置くハイラスの物質主義のほうにそのレッテルが突き返されるのです。デカルトやロックのように、粒子でできた物質が→身体に働きかけ→情報が神経を伝わって脳に至り→心の中に観念が生じるという「粒子仮説」に対する徹底反論。「ほほう、じゃあ物質っつうのは身体に働きかけるような能動性を持っとるんだな?」

では、各人が勝手に自分のスクリーンに映っただけの実在とおつきあいをしているのに、なぜ、あなたと私で「このリンゴ」をめぐって会話が成立するのか。それはすべての原因である「神」の知覚をわれわれが分け持っているからだ、と説明されてしまう。
それはちょっと、えー、って感じになりますが、本作はいろんな議論の萌芽を含んでいる気がします。

知覚から離れた「ほんとうのもの」を否定するのは、イデア論に対する批判に思える。
各個人の外側にある物質が何らかの性質を、確かに発しているのだと考えれば、それは「アフォーダンス」と呼べるかもしれない。
実在を構成する観念というのはすなわち「クオリア」でしょう。
そして、実在は観念の束だというが、「束ねる」というゴムバンドみたいな役割をしているのは多分、「理論」です。「観察の理論負荷性」の理論。
「環境=世界そのもの」と「私」の間に「疑似環境」というスクリーンが挟まっているという図式でメディアや世論を考えたリップマンも、バークリの議論をどこかで参考にしたのではないか。
ちくちくとうるさいフィロナスの存在もまた、ハイラスの心に現れる観念の束にすぎないと考えれば「独我論」に引き寄せられていく感じがする。
根源に「神」を置いて解決するのはズルい感じがしますが、しかしなかなか否定しがたい。ビレンケンの初期宇宙論は「無の中にぽっと宇宙の種が生まれた」と主張するが、逆に宗教者はそれを一笑に付すかもしれません。やはり究極の原因が何かあったという信念を人は求めてしまうのかもしれない。もっとも弊管理人は十数年前の留学中、うっかり同じ寮にいた敬虔なプロテスタントのおにいさんに「で、その神の原因は何なんですかね」と切り返してしまって激しい議論になったことがあるんですが。

ヘタクソな対話篇は、一方的に教えてあげる先生と、一方的に質問して教えてもらう生徒が出てきて、対話形式じゃなくてもいいような、解説的文章を細切れにしただけの会話を展開しますが、本作はそうなってなくて面白い。ハイラスが粘るいらつく狼狽する粘る困る蒸し返す諦める。フィロナスが呆れる諭す譲歩する追い詰める宥める。読者はいつも分が悪いハイラスに心情的に肩入れし、そしてフィロナスにひっくり返される、悔しい、でも痛快です。

* * *

早起きして、外で仕事して、うっかり夕方に職場に戻ったら仕事に巻き込まれた。疲れた。
今日、東京は桜の開花宣言がありました。暖かい。今年初めて、シャツ+ジャケットで出勤しました。

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2014年03月25日 23:10に投稿されたエントリーのページです。

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