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台湾(ところで)

■ところで、今回の台北では中正紀念堂と国父紀念館を見たのですが、あれ?孫文(1866-1925)と蔣介石(1887-1975)ってどういう関係だっけ?とこんがらがったので、手元の『詳説世界史』(山川出版社、2013年)を参考に流れを追ってみました。高校世界史を勉強してから20年……(遠い目)

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・20世紀に入るころ、清朝の打倒を目指す革命運動が盛り上がった中に、孫文が1894年にハワイで組織した「興中会」もあった。
・孫文はばらばらだった革命諸団体を結集しようと、1905年に東京で「中国同盟会」を組織。「民族・民権・民生」の三民主義を掲げて革命宣伝や武装蜂起を行った。中国同盟会はその後、国民党に発展。


・1911年、満州皇族を中心とする内閣が幹線鉄道を国有化しようとしたのに民族資本家や地方の有力者が反発。四川で起こった暴動をきっかけに軍隊の中の革命派が蜂起し、辛亥革命が勃発、各地に拡大した。
・辛亥革命が始まって1カ月で大半の省が独立し、孫文を臨時大総統に迎え、1912年1月に南京で「中華民国」の建国を宣言、アジア初の共和国が成立した。※それで民国紀元が始まるんですね。今年は民国103年。


・清朝は北洋軍の実力者である袁世凱に革命側との交渉に当たらせたが、袁世凱は清朝を見限り、宣統帝の退位と共和政の維持を条件に孫文から臨時大総統の地位を譲り受け、北京で就任した。
・しかし、議会を抑えようとする袁世凱と、孫文の国民党が対立、共和政は安定しなかった。
・孫文は武装蜂起(第2革命)したが袁世凱が鎮圧、袁世凱が正式に大総統に就任した。
・さらに袁世凱は自ら帝位に就こうとしたが、国民党系の地方軍人による反発(第3革命)や諸外国の不支持により失敗、1916年没。
・その後、北京政府の実権をめぐって各地の軍閥が抗争する状態が十数年続いた。(pp.324-326)


・1921年、コミンテルンの支援によって陳独秀(「新青年」を発刊した思想家)を指導者とする中国共産党が結成。孫文の中国国民党もソ連の援助を受けたり、共産党員が個人の資格で国民党に入党することを容認、第1次国共合作が成立した。軍閥打倒・帝国主義打倒路線へ。孫文は1925年に病死。


・1925年、国民党は広州に国民政府を樹立、1926年には蔣介石が率いる国民党の軍=国民革命軍が中国統一を目指して北伐を開始。1927年には上海、南京を占領した。
・しかし、国民政府の内部で共産党員(左派)と右派が対立し、蔣介石は1927年3月の上海クーデタで共産党を弾圧。新たに南京に国民政府を立てて主席に就任した(国共分裂)。共産党は農村でソヴィエト政権を作る方向に転換し、1931年に江西省瑞金で毛沢東を主席とする中華ソヴィエト共和国臨時政府を設立した。


・1928年に北伐が再開され、北京に迫った。日本は全国統一を妨害するため、日本が後援していた張作霖を爆殺するなどしたが謀略は失敗し、張作霖の子の張学良が日本への対抗として国民政府の東北支配を認めたため、全国統一が達成された。(pp.349-350)


・1931年の満州・柳条湖での鉄道爆破(柳条湖事件)をきっかけに関東軍は東北地方の大半を占領(満州事変)。1932年、溥儀を執政に迎えて満州国を建国した。
・国民政府は日本への対応よりも共産党との抗争に力を入れていたが、満州事変をきっかけとした抗日運動の広がりを受け、中国共産党は八・一宣言で内戦停止を呼びかけた。張学良は訪ねてきた蔣介石を監禁して説得し、国共は再び接近。1937年に第2次国共合作が成立して、日中が全面交戦状態に入った(日中戦争、~1945年)。(pp.358-360)


・戦後になって国民党と共産党の対立が再燃。国民党幹部の腐敗や経済混乱で民衆の批判を浴び、農民の支持を得て反攻した共産党に敗れた蔣介石は1949年に台湾に逃れ、中華民国政府を維持した。共産党は同年、毛沢東を主席、周恩来を首相とする中華人民共和国の成立を宣言した。(p.376)

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2014年02月24日 00:00に投稿されたエントリーのページです。

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