« もうやんカレー | メイン | 右翼と左翼 »

S君が死んだ

なにか感傷的になって文章を書くとき、どっかの詩を引き写して、短い言葉で改行を繰り返して行数を稼ぐ、つまり他人の言葉で空白を埋めるのは、なんとなく安直で美しくない行いだと思います。

まあそれはそれとして。
札幌にいたときに新人で入ってきた後輩のS君が休暇中の今日、交通事故で死にました。自分がハンドルを握って高速道路を走っていて、同乗していたお兄さんともども亡くなってしまった。

いま振り返って彼を形容するのはまことに難しい。志は高いが、孤高というよりは少し辷っている。不器用ではあるが、愚直というよりはもうちょっと浅はかな感じもある。言動がけっこうカッコつけているけれど、そこには不思議ちゃん的な匂いがある。
自分が当時の担当の頭をやっていて、そこに一番下の担当者としてついた彼だけれども、なんというか、あまり魂のレベルで交流をした印象もない、むしろちょっと自分とは世界が違うような気がしていた。追悼の言葉をと問われれば、さらりと「あのさー、それって違くない?」と言うしかない。

自分の中をよく覗いてみて掴みだして来られる言葉はそんなものなのだけれど、それとは別の、身体のレベルで、今日は朝、それこそ彼が700km彼方で死んでから2時間経たないうちに報せを聞いてから一日、あえて数字にするなら普段より10%くらい、高揚していた。
その原因はおそらく、自分より4つ若い28歳でも世界から消滅することがあるということが一つ。また、生きているということは代謝することだと考えている(余談だが、だから現時点で脳死は死だと考えない)ので、その象徴的な場面である「食事」をしている最中ずっと自分が生きているということが強く迫ってきたということが一つ。さらに、これも普段から考えていることだが、家族を持つということはリスクだということ(今回は同乗者として、特に遺族として)の一面が垣間見えたということ。このあたりかなと思いたいが、ひょっとしたら、ここで冷静でいることはとりあえず人としてよくない、という打算だったかもしれない。

結局彼は自分にとってはあまり心理的には近くない存在で、しかし距離的には近くにいたことのあるよく見知った存在だったので、その訃報に接して、「彼が」もはや不在であることから流れ出てくる冷たく湿った悲しみに浸されるというよりは、「不在」ということのほうから発射された一発の乾いた熱風を浴びたような圧倒のされかたをしたのかもしれない。

だいぶ定時から遅刻して席に着いて、この週末に目鼻がついた仕事を片付けて同僚と昼食を摂って、信濃町まで行って喫茶店の外のデッキでアイスコーヒーを飲んで、約束の時間に仕事をして、また職場に戻って仕事を片付け、ノートPCを持って退社してちょっと飲みに行って談笑して帰ってくる。そんな仕事納めの一日でした。

About

2009年12月28日 23:59に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「もうやんカレー」です。

次の投稿は「右翼と左翼」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type 3.35