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いじめの構造

■内藤朝雄『いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか』講談社現代新書、2009年。

現象や言説を手際よく分類したりクローズアップしたりしながら、それらの背後に隠れた時代性を明らかにしました。ジャジャーン
みたいな芸当を蹴り倒し、数十カ所ナイフを突き刺し、呪詛を……みたいな情念を感じますなあ。いやこういうの好きですけど。
いじめの起こる心理的・社会的な構造を特定し、パーツごとに名前をつけ、そしてその中に病変の根を見出し、そこに効く薬を処方する。そういう実践志向な方法論に立って書かれています。

たとえば、いじめる側がいじめによって得る「全能感」、これに一度つきあうと、少しでも意に沿わないことが起きた場合に、損なわれた全能感の回復のためにより苛烈ないじめが起きるということを突き止めれば、最初の段階でうっかりいじめっ子に従ってしまうことがいかに危険かがわかる。

たとえば、いじめてもそれが「傷害罪」にならず、教室という狭い世界の掟では大した罰が与えられない(どころか、いじめをチクった=外の論理を持ち込もうとした側がむしろ非難される)とすれば、ほとんどのいじめっ子はいじめることのリスクが小さいからこそいじめをやめないのだということを突き止めれば、教室に「刑法」を介入させることがいかに大切かがわかる。

など、など。

内容については、かなり平易に書かれているので、ここでまとめるまでもなくさっと読めると思います。
強制的に子供を狭い世界に押し込め、「人とちがっている」ことを認めない掟の中で互いの顔色と場の空気を読みながら場当たり的に行動させる、学校という不自由な空間を開放すること。経験的にはなんとなくこうしたらいいんだろうなあ、と多くの人が思っている、そうした開放に向けて、プロジェクトをきちんと組み、根拠づける。意義のあるお仕事だと思います。

これ、でも、オトナのいじめに挑むにはさらに周到な作戦が必要だなー、とも思いながら読みました。
強制的に押し込まれた学校と違って、オトナの世界にある会社とか趣味のコミュニティとか、そういう集団って「自分で選択して入った」もののように見えて、実は賃金とか人間関係とかを人質にとって「抜けるのに相当のリスクとコストを課す」でもって「意外に代替できる集団がない」ところが多いでしょう。そういうところで起きるいじめにどう取り組んだらいいのだろう。
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2009年05月28日 21:25に投稿されたエントリーのページです。

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