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希望と必要

ウィッシュ、といえばDAIGO。ネセサリー、といえばGOLDEN EGGS。

ええそれとは関係なく。
先日来、あいかわらず労働組合というのに関わっておるのですが、その執行部の人たちの清々しい職業意識や愛他精神には当てられっぱなしで身の縮こまる思いが続いております。

ちょっと前の話ですが、8月の終わりに、また泊まりがけの勉強会のようなものがありました。こんどは三浦半島の先端まで行ってみっちり議論、ブレインストーミング、そしてちょっと磯遊び、とか、まあそんな感じで。
本社の人たちはだいぶ年長の人たちで、いろいろなセクションから「こいつを出しておけば大丈夫だろう」と見込まれて出てきているわけです。つまり労組が強いので労組を引っ張る人材は自分らの未来を左右しかねないため、窓際みたいな人は出してこれないということなんでしょう。

空き時間などに、第一線でバリバリ仕事をしているそんな人たちと話しておりますと「君は将来何がしたいの」とよく聞かれます。多くの場合は「いや自分は特にそういうのは」と正直に答えて場が冷えるのですけれども、さて自分はなんでこんな希望に満ちている[ことを前提とされた]集団に入ってしまったのかと談笑しながらいろいろ身の上を省みるわけです。

内側を観察して思うことですが……そうはいってもそれなりに仕事をしぼつぼつ評価もされているところをみると、どうも自分はやる気がないというよりは、自分を仕事に向けて駆動しているものが「希望」ではなく「必要」なのではないか。「これをやりたい」ではなく「これはやっておくべきだろう」で仕事に臨んでいるような気がします。つまり動機が自分の内から沸き上がってくるのではなく、自分の内に形成されたアドバイザーに指示され動いている感じがする。

挿話1。
恋人ほしいとか結婚したいとかそんな話が飛び交うアラサーど真ん中(笑笑)なのですが、それキミ、寂しいから恋人欲しい、とか好きだから結婚したい、とかではなくて「自分は恋人作ったり結婚したりするアビリティがあります」という認定資格を欲しがってるだけと違いますか、と疑うケースが周囲にちらほら。

挿話2。
自分のことですが、本を読むとかおいしいお店を探すとか、きれいな景色を求めて旅をしたりしているときは、ほとんど「それが友人に喜んでもらえるかどうか」を考えている気がします(特定の友人を思い浮かべることもあれば、いつか誰かの役に立てばという場合もある)。もちろん新しいアイディアに出会ったときの興奮とかおいしいもので味覚が喜ぶとか、そういう露骨な快楽もなくはないんですが、比重はそれほど大きくないように思える。

物事それ自体を楽しむ経験を欠いた人生が空しいとかいう話をしたいのではなく、逆に、自分を突き動かすものが内発的なものでなくても、わさわさ動いていると気持ちが上向く。こんなんでも結構生活まわっていくものだなあという感慨。動機を持続させるのが難しそうだけど、そういう特性を自覚しておけば、頑張ってみるにしても割り切るにしても対処のしようはあるってもんだろうね。

明日あんたは突然死にますと言われても、まあ痛い思いをしなければいいかと思っています。そのかわり明日になっても死ななかったときに備えて、今日はやっぱりいろんな活動をする。
生きる理由がないのに結構楽しげに生き続けているのはなぜか、みたいな話をときどき友人とするのですが、今日書いたようなことが一つの答えになるような。いやどうかな。

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2008年09月22日 00:48に投稿されたエントリーのページです。

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